2020年6月14日 ビジュ神父様メッセージ

キリストの聖体 (2020年6月14日)

 

第一朗読 申命記8・2-3、14b-16a

第二朗読  一コリント10・16-17

 

<福音朗読 ヨハネ・6-51-58>
 そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 

分かち合い
 第一朗読はマナを与えられたイスラエル人がエジプトでの奴隷生活から解放された中の話です。40年間の荒れ野で食べ物がない時に、彼らに天からの食べ物マナをあたえたのです。この40年間、神は彼らに無条件で「炎の蛇とさそりのいる水がない、乾いた、広く恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、…マナを荒れ野で食べさせてくださった。」彼らが神様のことを忘れた時も、神様は彼らに必要な恵みを与えて生きるようにしたのです。この朗読は、人間の生きる時の様々な場面を提示し、神様の大きな恵みの中で生きていくのだと伝えているのです。荒れ野でのような生き方の中で彼らが神の恵みを受け、またそれを忘れて、神から離れたり、また、神により頼んだりして荒れ野で生活をしていたのです。それでも、神様は彼らに必要な賜物を与えていたのです。これは今の私たちの信仰生活の話でもあります。
今日はキリストの聖体の主日です。ミサにあずかるたびにイエス様は、弟子たちとの最後の晩餐の際にパンを取って言った言葉「これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される私の体である。」そして杯を取って「これを受けて飲みなさい。これはあなたがたと多くの人々のために流される私の血である。」を通して自分の体を私たちに与えてくださるのです。
 このようにイエス様は私たちにミサ毎にご自分の体を与え自分を割いてくださるのです。イエス様は、私たちがどんな人であれ、その体を受けて、イエス様のようになることを望んでいるのです。何の条件もありません。
 新型コロナウイルスの感染拡大防止対策でしばらくの間、教会でごミサに参加できない日々が続いています。当たり前のように、毎週に教会でのミサに与り、ご聖体をいただいていたことは、コロナ対応で、できなくなりました。せめてご聖体をいただいて、自身を力づけたいと、多くの信徒が思っていることでしょう。私たちは、自分の心から罪を告白してイエス様の体をいただくことによって日々、キリストに似るものになるのです。また、自分を清くしていくのです。罪を犯した人でありながら、ミサ毎にイエス様の体をいただく最高の贈り物(罪の赦しと、キリストに似るものとしての賜物)は無条件で私たちに与えられます。

 私たちは何か整理していくうちに、長い間使わないで置いた物などを見つけることがあります。存在すら忘れていたものが出てくることがあります。今回、同じようなことがありました。司祭館や信徒会館の整理をしていた中、まったく使っていないような状態の絵が出てきたのです。今回、信徒会館の壁にかけることにしました。
 整理することによって、その絵があるとわかったのです。整理をしなければ、きっとその存在には気づけなかったでしょう。

 キリストの体についても同じようなことが言えます。私たちは、いくら聖書読んで、理解しても、あるいは、いくら祈りをしたとしても、キリストを受け入れてその教えを自分のものにしなければ、また、教会でキリストの体を受けなければイエス様を私たちの中に入れることが出来ないのです。知らないままになるのです。聖体を受けてキリストが与えてくださる生命と力を受け、私たちがイエス様のうちに住み、イエス様が私たちの内に住むのです。ミサに与り、イエス様の体を食べ、血を飲むことによって私たちの心と魂が養われ、キリストに似るものになるのです。

 第一朗読の中の奴隷生活から解放された中でのイスラエル人のように、私たちは、信仰を持って生きているとしても、人間として落胆したり、絶望したり、また、人生において嫌なことがあったりします。今日の第一朗読にあるように、神様はいつも必要な恵みマナを無条件で与えてくださいます。キリストの体は私たちに与えられたマナです。キリストは私たちにこのように苦しんでいる時に、力づけるために、その苦しみを担い、最高の賜物としてご自分の体を与えてくださったのです。

 イエス様が与えるこの無条件の愛は私たちも人々に与えることが出来るように努めることでしょう。信徒の中でも教会のために何か奉仕して、人々のために時間を割いてくださる方々もたくさんいます。無条件の愛の行為の一つです。

 教会はこのミサを通して、また、聖体の秘跡を通して、イエス様の体を受けて、赦しと平和を与える人になるようにと促しています。何の条件もないのに私たちはその恩恵にあずかりますが、無条件で人を愛することが出来ているでしょうか。キリストの聖体の主日に当たって自分にできる無条件の行為とは何かと考えてみましょう。

 

以上