荻窪教会の皆様へ

 

 灰の水曜日以降、東京教区では公開のミサが中止されています。当初の発表では、3月14日までの措置でしたが、さらに3月29日までの主日までの中止継続が発表されました。その後のことは現在、見通しの立たない状況です。私たちにとってはまさに想定外のことです。しかしながら、この状況を一つのきっかけとして、信仰生活、その中心にある聖体祭儀、聖書のみことばを通して神様との関わりを見つめ直しましょう。

 

 新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかかりません。目に見えないウイルスは、国境と無関係に拡散しています。目に見えないものをないがしろにし、すべてを支配する錯覚に陥っている人間をあざ笑うかのような状況が展開されています。こんな形で回心を迫られるとは、皮肉なものです。一日も早い終息を願いましょう。

 

 先日、司祭評議会が開催され、会議は新型コロナウイルス対策に多くの時間が割かれました。その中で、「ミサができない、集会ができないのは事実だが、この状況にあって教会共同体がひとつになる工夫が必要ではないか。できることを探す積極性が問われているのでないか」という意見が出されました。確かにそうです。何か一つの決断をする時、陥りがちなことは大きな目標を掲げてしまうことです。しかし大切なことは、小さな一歩を踏み出すことです。この小さな一歩を積み重ねることです。

 

荻窪教会の運営に関わる方々と話をして、私が皆さんにメッセージを出すこと、ミサはなくてもご聖体のイエス様と出会う機会を提供すること、荻窪教会の私たちが共通の祈りをささげることを、小さな一歩とすることにしました。再開されるミサへの期待のうちに、共同体の一員としての意識を大切にしましょう。

 

 15日の福音に次のようなイエスの言葉があります。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:21)この世に生きる私たちは、礼拝の場所を必要とする存在です。しかし今日のイエスの言葉は、聖体祭儀の中止を余儀なくされている私たちに大きな慰めを与え、イエスを中心に一つの祭壇を囲む時への希望をもたらしてくれます。

 

 

2020年3月14日   荻窪教会管理者  浦野 雄二