今月14日に東京の桜の開花が宣言されました。当日は、荻窪教会で翌日以降の対応についての会議が開かれたので、車で教会に向かっていました。車中のラジオで、午後2時に開花について日本気象協会から発表があるというアナウンスがありました。当日は冷たい雨が降る寒い日でしたので、開花宣言はないと思っていましたが、帰りの車中のラジオでは開花が発表されたと報告があり、びっくりしました。その前日は、あたたかな日で、関口の大司教館の前の桜の木には二輪の桜の花が咲いていたのは確認していましたが、標準木はすでに五、六輪以上の開花があったようです。片や先の見えない不安の中にある私たち、一方でそのような状況とは関わりなく、自然の恵みを受けて、それを開花させている桜の花があります。せめてあっという間に散らずに、少しでも長く私たちの目を楽しませてくれると良いのですが。
22日の福音はヨハネ福音書の9章の生まれつき目の不自由な人のいやしのエピソードです。当日の「聖書と典礼」に掲載されているのは短縮版ですので、ぜひ聖書を開いて9章全体をお読みください。
生まれつき目の不自由な人がイエスと出会い、いやされたことがきっかけとなって、想像もしない騒動に巻き込まれていきます。自分にもたらされたいやしが、周囲の人々の様々な思いを浮かび上がらせていきます。妬みであったり、偏見であったり、家族からも見放されるような扱いを受けたり、様々な人間模様が次々と展開されて話が進行していきます。
非常に皮肉なテーマを取り扱っていると思わざるを得ません。自分の身に起こったいやしがきっかけとなり、自分の思いとかけ離れた騒動に巻き込まれるにもかかわらず、いやした本人であるイエスは、騒動の渦中には姿をまったく姿を現しません。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。」(ヨハネ9章35節)
いやされた人がある意味、最も必要としている時には姿を隠し、「彼が外に追い出された」時に、姿を現すイエスについての描写は、何を私たちに伝えようとしているのでしょうか。黙想のテーマでもあります。
再会の期待のうちに、荻窪教会のメンバーを思い起こしながら、また一週間を過ごしてまいりましょう。ごきげんよう。
2020年3月19日 荻窪教会管理者 浦野 雄二