2020年7月26日 ビジュ・キシャケール神父様メッセージ

第一朗読 

第二朗読 

福音朗読 マタイ13・44-46

〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

 45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

 

 

分かち合い

 

 今日の福音は、価値のあるものを見つけた人はそれを手に入れるために、知恵を絞って行動すると伝えているのです。

 

 人によって価値のあるものは違います。身の周りの物が価値のあるものと感じる人がいるかもしれません。ある人にとって、価値あるものとは地位や名誉かもしれません。また、別の人は、財産が価値のあるものかもしれません。家族とのつながりはとても価値のあるものと思う人もいるでしょう。

 

 今の私たちに手に入れたいのは、きっと、コロナウイルス感染を抑えることでしょう。全国的に感染者が増えっていく一方で、通常であれば今週からオリンピックを始めるはずであり、日本中はにぎやかなはずでした。数か月前まではオリンピックを成功させないといけないということを誰もが望んでいたことと思います。しかし、今は、世界中で誰もが思っていることは一刻早くコロナウイルス感染が抑えることでしょう。

 

 さて、今日の福音の中の「畑の宝」の話を考えると、ある造園業を営んでいる方が話されたことを思い出します。以前勤めていた園で園舎の建て替えの時に出会い、彼と仲良くもなりました。ある日、彼に、どうして庭師の道を選んだのか、また、この職業は楽しいですかと尋ねたことがあります。彼は、「最初から庭師になりたかったわけではありませんでした」と言いました。「しかし、何となく始めたこの仕事をし続けたら、楽しくなり、いつの間にか、上司から色々教わってきたことが自分にとって大きな価値あるものになっていました」と言いました。そして、上司がいないところで、一人で、庭の手入れが出来るようになった時に初めて、自分の中にある宝に気づいたのだというのです。そこで、彼が独立して自分の会社を興し、この造園業を一生の仕事にしようとすべてをかけたのだと自慢げに言ってくれました。上司と一緒にいた時は、教わるだけでしたが、自分の中に、隠れていた才能を見つけ出した時に、それを価値のあるものと感じ行動したのです。今でも、お世話になった上司とは連絡しながら、お互いに助けあっているそうです。

 

 人生においての宝物とは何でしょうか。

 

 今日の福音の中の最初の部分に注目したいと思います。このたとえの中では、「畑に隠された宝」が「神の国」だということでしょう。人として本当の宝とは何でしょうか。また、このたとえ話の中の人のように、自分の持ち物すべてを売り払ってでも手に入れたいものとは何でしょうか?

 

 最初の話の中の人は宝が隠れていた畑を買うために自分のすべてのものを売り払い、その畑を手に入れるようにすると書いてあります。その理由は、畑にある宝の持ち主は畑を持っている人になるからです。もしかして、この宝を見つけた人は、それを畑の持ち主にそのことを言わないで、その宝を手に入れたいので、自分のすべてを売り払って、畑を買って畑の持ち主になって宝を手に入れようとしたのです。

私たちの信仰もそうでなければならないのです。時間があるから教会に行くということではなく、どんなに忙しい中でも、神様のために、時間を見つけられる人こそが、今日の福音に描かれている畑に宝を見つけた人のように、人生において大切なことに時間を注ぎ、喜びに溢れるのです。

 

 私たちの信仰もこの宝を見つけた人のように喜びであふれてほしいです。信仰の喜びとは他の物質を手に入れることより、言葉には表しきれないほどはるかに大きいものです。これを見つける人は幸いです。大切なもののために、時間もお金もかけているように、神様とのつながりは、何より大切なものであり、何かに制限されるものではないのです。神様の繋がりこそ、一人ひとりの宝物であってほしいです。忘れないでほしいのは、この世のすべての価値のあるものは過ぎ去ります。残るのは、神様との繋がった心の豊かさです。日々の生活の中で、自分にとって、神様とのつながりという宝物より大切なものがあるのでしょうか。私たちは神様とのつながりの中で、自分自身のうちに隠されていた宝を見つけられるはずです。