2021年5月9日 荻窪教会
ヨハネ15・9-17
今日の福音箇所では、何度も「愛」という言葉が出てきます。それだけにこの言葉が今日の最も大切なテーマとなるのですが、それを理解するためには、第二朗読で読まれる使徒ヨハネの手紙にも注目する必要があります。
第1ヨハネの手紙4章の8節には「神は愛」であると記されています。神という存在と、愛そのものがイコールで結ばれているわけです。神はどういう存在か、と問われた時、他のどのような形容も不要で、一言「愛」である、と私たちは答えるべきであるのです。そこで今日のテーマである「愛」の話になるのですが、神は愛であることを理解すると同時に、愛というもの自体がどのようなものかを私たちはよく知らなければなりません。
愛にも色々ありますが、キリスト教的な愛というものを、本当に簡単に説明するならどういうものでしょうか。昨年まで私がいた学校の中1の生徒達にも必ずこの事を教えていましたが、愛というのは何ですか、と言われたら、それは「何かを大切に思う気持ち」であります。人によっては、それは物かも知れませんし、思想かも知れません。いずれにしても、自分が何かを心から大事に思うこと、その思いが愛なのだと言えるのではないでしょうか。現代では愛というと、どうしても英語のLOVEのイメージが浮かんでしまうところがありますが、キリシタン時代にはもっと理解しやすい表現で、愛のことを「ご大切」、「大切」と呼ぶことがありました。1591年に書かれたキリシタンの書物には既にこの「ご大切」という表現が、いまのキリスト教的な愛の意味で使われていたそうです。この表現は、現代の私たちにとっても、愛という言葉をより身近に感じさせるものでありますし、先ほど述べたような「何かを大切に思う気持ち」と繋げて考えやすくなるものだと思います。
さて、今日の福音でイエスは弟子たちに一つの掟を語ります。それは「互いに愛し合いなさい」というものです。そしてそれは「わたしがあなたがたを愛したように」という模範付きの掟であります。言い換えれば、イエスが弟子たちを大切に思っていたように、弟子たちもお互いを大切に思いなさい、ということです。そしてこの掟は弟子たちを通じて、イエスを信じる全てのキリスト者にも与えられているものです。私たちも、愛、すなわち大切に思う気持ちそのものである神を信じる者として、そして自分の命すらもささげるほどに全ての人間を大切に思われたイエスにならう者として、まずは身近な人々の間から、大切に思う気持ちを新たにしていくことが求められているのだと思います。
現状のコロナ禍にあって、感染自体だけでなく、その影響から様々な困難を強いられている人々が増え続けています。そんな中、自分以外のことを大切に思うまでの心の余裕はなかなか持つことが出来ないかも知れません。誰しもがまずは自分のことを大切に考えて欲しいと思う時かも知れません。しかし、どんな時でも、私たちの神は愛であり、私たちを大切に思っています。その希望だけは忘れずに、日々の生活を精一杯生きて行きましょう。