2021年5月30日 荒田神父様メッセージ

三位一体の主日

 

マタイ28:16-20

 

 今日は三位一体の主日であります。私のような学の足りない者はもちろんのこと、恐らく、多くの司祭にとって、この三位一体についての説教が一年で一番難しいと感じるものではないかと思います。カトリック教会において三位一体という教義自体は381年の第1コンスタンティノープル公会議で確定したものでありますが、そのイメージを私たち人間が頭の中で完璧に思い描くことが出来ない、というところが、理解の難しさを表しています。

 父、子、聖霊、この3つは、それぞれが、独自の「位格」を持っています。人格ではなく位格と呼ぶのは、人ではないからです。しかし、それぞれの位格を持っていながら、この3つは神、という一つの本質を共有している、この考え方が三位一体の教義であります。普段から「父と子と聖霊との御名によって」という言葉で十字を切っているように、私たちが頼り、たたえ、そして祈るべき存在は、この三位が一体となっている唯一の神であるわけです。今日の福音でイエスは弟子たちにこの三位の名によって洗礼を授けることを命じていますが、弟子たちの時代から、現代の私たちの時代においても、常に共におられる神はこの三位の名における神であるのです。

 今月の9日、復活節第6主日の朗読で読まれた使徒ヨハネの手紙には「神は愛である」という言葉がありました。この言葉は、私たちが三位一体の神を理解するために大きな助けとなります。ヨハネの手紙の言葉通り、父なる神が愛であるなら、同一の本質を持つ子なるキリストも愛であると言えます。そして、聖霊も同じ本質を持ち、また父と子から出るものでありますので、聖霊自体も愛であるということが言えます。つまり、三位一体の神という存在は、それぞれ表現される形がありながらも、等しく「愛」である、ということが言えるのです。ともすれば父と子と聖霊のみ名によって、という言葉は、三位一体の神の愛によって、と言い換えることが出来るわけです。三位一体の主日にあって、それぞれの位格、存在を考えると共に、これらは等しく「愛」である、ということを理解することは、非常に大切なことなのではないかと思います。では私たちは、その愛である三位一体の神と共に、どのような生き方をすべきでしょうか。今日のミサのための『聖書と典礼』に記載されている共同祈願の中に「相手を思いやる愛の実践を通して、互いのきずなをふかめることができますように」という例文があります。愛である三位一体の神から、私たちが皆、愛されていることを思い起こすと同時に、私たち自身も、受けた愛を今度は別の人へと実践をしていくことが大切です。相手を、他人を思いやる、という、言葉で表せば簡単な、しかし実践の難しいことを、日々の生活の中で行動に移していく大事さを改めて心に刻みたいものです。

 今日一日、三位一体の主日として、三位にまします唯一の神とその「愛」について理解を深め、私たち自身の生き方にも浸透させていくことが出来るように、共に心を合わせて祈りましょう。