年間第16主日 マルコ6章30-34
「使徒」は、ギリシア語では「アポストロスapostolos」で、「アポステローapostello(遣わす、派遣する)」という動詞から来ています。「遣わされた者」という意味です。2000年前のガリラヤとユダヤでイエス様がしていたことを、今のわたしたちが自分の置かれた場所でなんとか行なっていこうとするとき、わたしたちも「使徒」だと言えるはずです。
さて、イエスは群衆の「飼い主のいない羊のような有様」を見ます。羊は弱い動物なので、群れを離れると迷ってしまいます。「飼い主=羊飼い=牧者」の役割は、羊の群れを一つにまとめ、野獣から守り、草のあるところに導くことでした。イスラエル人の先祖も羊飼いでしたので、旧約聖書には「飼い主のいない羊」のイメージがたびたび現れます。
「この飼い主のない羊のような有様を見て深く憐れみ」の「深く憐れみ」は、ギリシア語では、「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。相手の痛みを我がことのように感じ、深い共感を表す言葉なのです。イエス様の愛の行いはいつもここから来ていると言ってもよいのでしょう。
今日の箇所で、この深い共感からイエス様がしたことは「教え始められた」ということでした。教えの内容は「神の国=神が王となること、その王は憐れみ深く慈しみに満ちている」についてのイエス様の教えです。
日々の生活の有様で、羊のように迷い込んでいる時に、私たちを導いてくれるのは神様です。その神様への信頼と信仰に満ちた生き方は、必ず、心を満たし、恐れと不安から解放します。現代社会に生きているわたしたちの多くはたぶん疲れています。特に、ここ一、二年間、コロナ禍で様々な困難で追われている現代社会です。イエス様は弟子たちに「しばらく休むがよい」と言われました。「しばらく休むがよい」とはどういう意味するでしょうか。現代社会で、物質的な欲望に負われて忙しくしていた、人々へのメッセージでしょうか。何のために、日々、忙しくしているでしょか。生きるため?あるいは、ものが足りないので、たくさん集めて豊かに暮らすためでしょうか?イエス様のように、疲れていたとしても、人々に憐れみ深く関わることが信仰者としての役割でもあります。迷っている人を助ける、導くことが、本当のやるべきことではないでしょうか。信仰に生きている人として、人々をイエス様のもとへ、イエス様とともに時を過ごすように、イエス様の言葉を聞いて、イエス様の食卓にあずかるよう導くことはやるべきことではないでしょうか。神様を他の形で求めていた人々が、本当の心の喜びを見いだすことができ、神様のもとで「休む」ことができますように。
ビジュ キシャケール