ルカ1・39-56
聖母の被昇天の今日、福音はマリアがエリサベトを訪問し、神の救いをたたえる言葉を述べる場面が読まれています。この直前の箇所で、マリアはガブリエルから受胎告知を受け、またエリサベトも身ごもったことを知らされ、急いで彼女のところに挨拶に来た、という状況であります。
この箇所では、エリサベトがマリアに向かって「私の主のお母さま」と呼ぶ場面が特に印象深く、エリサベトの謙遜さ、神に対する敬虔な態度というものが注目されます。そんな中で、もう一つ取り上げられるのは、マリアが急いでエリサベトのところに向かった、という事実であります。ガブリエルから告知を受け、それをしっかりと受け止めたマリアでしたが、実際のところ、やはり少し不安もあったのではないかと思います。しかし、同じく天使から受胎を宣言されたエリサベトを訪問することで、やはり天使の言った言葉が本当であったと互いに確信を得ることが出来たわけです。その為、マリアは急いで、エリサベトのもとに向かったという表現がなされているのだと思います。ですので、この箇所は互いの尊敬を表す場面である同時に、互いの信仰を揺るぎないものとする大事な場面でもあると言えるのではないでしょうか。この信仰の確立はエリサベトの「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」という言葉に集約されていると思います。
では、このマリアとエリザベトの互いの尊敬、互いの信仰の確立の場面は、私たちに何を伝えるものでしょうか。互いの尊敬、それは日常から人間同士が関係を築く上で重要なものであります。そして、互いの信仰の確立、それは私たち一人一人の信仰生活において求められるものであります。この二つは、教会共同体という様々な人間がいながらも同じ信仰を持って集う、その中で忘れてはならない大切な要素であると思います。性別も年齢も社会的立場も異なる集いにおいて、互いが互いを一人の「人間」として尊敬し、共有している信仰を支え合う、そうした姿が教会共同体のひとつの理想的なモデルであるでしょう。このマリアとエリサベトの二人は、まさに私たちが目指すべき形を表現していると言えるのではないかと思います。互いの尊敬、信仰の支え合い、そうした形を私たちは教会共同体において実現出来ているでしょうか、聖母被昇天の祭日に際し、この福音のメッセージを思い起こしながら、教会共同体をより良い方向へと導いていけるように、私たち一人ひとり、毎日の信仰生活を省みてみましょう。
最後に、この聖母の被昇天の日というのは、日本において終戦を記念する日でもあります。ただ戦争が終わった、ということを記念するに留まらず、この日までの大きな悲しみを忘れることなく、またこの日を最後に、二度と同じような争いをしてはならないことを毎年思い起こし、誓う日であります。私たちの平和への思い、祈り、誓いが神に受け入れられるよう聖母マリアの取り次ぎを願って、今日一日の祈りを捧げたいと思います。