マルコ8・27-35
今日の福音箇所は「ペトロの信仰告白」という、マルコ福音書の中でも特に大切な場面が読まれています。弟子たちと共に、地方の村々に宣教活動へと出向いているイエスは、その道中で「自分は何者であるか」について弟子たちに質問します。弟子たちは、人々が語るイエスについて、いくつかの名前を挙げながら答えます。
そんな中、ペトロは「あなたはメシアです」とはっきり答えます。イエスはこのペトロの発言について、否定も肯定もせず、ただ自分のことを誰にも話さないようにと注意しました。ペトロがイエスをメシアだと考えたのは、これまで共に旅をしてきて、様々な奇跡や癒しの業を見る中で、この人こそ、かつてダビデやソロモンといった王たちが誇ったイスラエルの国を再興してくれるような政治的救世主であると思ったからです。そのため、イエスが苦しみ、殺されるという旨の話を続けた際に、ペトロは、そんなことを言わないで欲しいといさめ始めたわけです。自分の理想であるメシア像と、大きくかけ離れている話をペトロは受け入れられなかったのです。イエスがメシアである、というペトロの告白は正しいものでしたが、それがどのようなメシアか、という部分で、誤った理解をしていたと言えます。
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスの問いかけは、今日の福音を通して、私たち全てのキリスト者に向けられたものでもあります。現代に生きる私たちは幸いにも、イエスがどのようなメシアであるか、またどのような救いを人々に与えたのかを知ることが出来ます。その意味で、私たちは正しくイエスを「メシア」であると言える信仰を持っているわけですが、同じく大切なのは、私たちがメシアであると信じているイエスに、どのように従っていくことが出来るのか、という点であると思います。今日の第二朗読の『使徒ヤコブの手紙』では「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と語られています。私たちがいくらイエスを信じ、イエスをメシアであると理解していたとしても、イエスの教えにそぐわない生活や行い、発言をしていたならば、その信仰にどんな意味があるでしょうか。私たち一人ひとりが、何も後ろめたさを持つことなく、メシアであるイエスに従っていると堂々と言える、そんな強い信仰を持つことが出来るように、今日の福音の言葉をよく心に留めながら、改めて自分自身の日々の信仰生活を省みたいと思います。
緊急事態宣言延長により、公開ミサの中止も継続されることとなりました。教会に行き、皆と一緒にミサに与かれない状況が続く中、自身の信仰を固く保つというのは、非常に困難なことであると思います。そうした中あっても、メシアであるイエスは必ず共にいて、私たちを支えてくれていることを思い起こし、この厳しい時期を乗り越えて行く力を願い求めて祈ることを続けて行きましょう。