「愛があるところには神様がおられる」
皆さん、今日の福音の中にも書かれていますが、イエス様は生涯を通して聖霊に導かれておられました。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエス様は、聖霊に満たされた後、荒れ野に赴いて悪霊の誘惑を退け、霊の力に満ちて、ガリラヤにお帰りになりました。
安息日が来ると、イエス様はお育ちになったナザレの会堂に入り、イザヤの預言の巻物をお開きになり、次の箇所を読まれました。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
これは、つまりイエス様が「イザヤ預言者が述べている主の霊を受ける人とはまさに自分のことである。」とイザヤの預言の成就を人々の前で宣言されたということです。皆さんもご存知のように、「キリスト」とは「油を注がれた人」という意味であり、「油を注がれる」とは聖霊の恵みを受ける、と言う意味です。イエス・キリストとは正に、聖霊に満たされた人、霊の力に満ちた人を意味します。
私達も洗礼を受けてキリスト者となって今ここに集まっています。私達の教会は聖霊降臨によって誕生しましたが、教会とは、神の霊であり、また聖霊を受けた神の民でもあります。私達は、洗礼により神の霊を受け、また堅信の秘跡によって霊の賜物を受けた神の民なのです。
ところで皆さんは聖霊の導きについてどう思われますか? 聖霊の導きを感じたことはありますか? 残念ながら教会に来た時だけ神様に祈り願うだけでは、聖霊の導きに授かることは出来ません。自分自身を神様の前に曝け出し、毎日の祈りの中で「主よ、私に対するあなたのご意志は何ですか、また、主よ、今日私は何ができますか」と尋ねることによって神の言葉を理解することが出来るのだと思います。そしてその理解こそが聖霊の導きであり、神様の愛なのではないでしょうか。
私達は日常生活の経験を通して、他の人々との出会いのたびに、キリスト者としての使命を遂行するように求められています。 イエス様は、他の人との出会いにおいて友好的で礼儀正しく、他の人の不満を聞き、困っている人に救いの手を差し伸べることをお望みです。
私たちは自分自身のためだけでなく、愛の中で他の人と一緒に暮らすために世界に存在しています。どうぞ皆さんも愛を分かち合いながら、生活していただきたいと思います。 苦しい時には、苦しみの中で生きている人の心がよくわかります。悲しい時も、嬉しい時も同じです。愛があるところには神様が必ずおられます。キリスト者として、いつも微笑みを忘れず、神様の愛を信じて生きていきましょう。