2022年1月30日 荒田神父様メッセージ

ルカ4・21-30

 

 今日の福音は、先週の箇所に続いて、イエスが故郷ナザレの会堂で語られる場面が読まれています。イエスが皆の前で大胆な事を話すのを見て、会堂にいた人々は驚きながらも「この人はヨセフの子ではないか」と言って、疑問に思う様子が伺えます。

 面白いことに、会堂にいた人々はまだ何も問いかけていないにも関わらず、イエスは「あなたたちはこう言うに違いない」と断言しながら、厳しい言葉をかけます。そうなると人々が怒るのも無理はありません。人が怒るのは図星を突かれた証拠だとよく言われますが、ナザレの人々は、イエスがこれだけ恵み深い言葉を語るのだから、当然、その故郷にいる自分たちには格別な配慮がなされるのだろう、と考えたのでしょう。しかしイエスは、預言者エリヤとエリシャの時代を例に挙げて話した通り、そうした狭い特権的な立場を期待しないように釘を刺しているわけであります。

 私たちの生活の中でも、同じように、こうした狭い心が覗く時が往々にしてあります。一般社会の中にあっても、教会生活の中にあっても、人は誰しも他人と比べ、自分を贔屓してほしい、優遇してほしいと思うものですし、厄介なことに、望むような待遇が与えられないとなると、今度は怒りをぶつけるようになります。私もたくさん身に覚えがあります。司祭に叙階され長崎に派遣されると、神学生時代とは大きく異なり、様付けで呼ばれ、道行く知らない人にも頭を下げられ、店に入れば、司祭というだけで特別なサービスを受けることもありました。それは長崎という場所のおかげでもあったわけですが、そうした格別な扱いに戸惑いを感じていたのも束の間、いつしかそれが当然であるように考え、同じような特別扱いをしない人には理不尽な怒りを覚えたこともありました。ナザレの人々が、自分たちが特別扱いされないとイエスに言われたことに対して怒ったのも、こうした感情だったのかも知れません。しかし当然ながら、神から与えられる恵みは、人を選んで差を付けるものではありません。どんな人間であろうと、自分が心から求めるのであれば、神は必ずその求めに応じてくれるものです。むしろ、その事を忘れ、自分は司祭であるから、あるいは信者であるから、神から与えられて当然だと思い、祈りもせず、イエスの教えに従おうと努力もしないのであれば、私たちの心は、せっかく与えられようとしている恵みを受ける器すら無くしてしまいます。自分の立場や、扱い、他人との比較に惑わされることなく、しっかりと自分自身の信仰を見つめることで、神の言葉はより素直に浸透してくるものです。このことを忘れず、今日の福音を改めて黙想し、素直にイエスの教えを、神の言葉を受け入れる心を持つことが出来ているかを省みましょう。

 現状、主日ミサで教会に集まることは出来ません。しかしそうした中にあっても、私たちが日々、神から恵みを受けていることに気付き、その恵みに感謝する気持ちを持つことが出来るように祈りたいと思います。そして、一日でも早い日常の回復が訪れるように、教会共同体全体で心を合わせて、神に願い求めることと致しましょう。