「神の慈しみを受ける」
皆さん、主の御復活おめでとうございます。先週、私達はイエス様の御復活を祝いました。今日、私達は「神の慈しみの主日」を祝います。私は以前、イエス様が聖ファウスティナに仰った言葉を読んだことがあります。「わたしは愛であり、慈しみそのものである。いかなる悲惨も、わたしのいつくしみに勝ることはない」とイエス様は仰いました。(『日記』1937.9.14)
では、皆さん「神の慈しみ」とは何でしょうか。慈しみとは全ての人間の尊さ、美しさ、善さを分かち合うことであると思います。「愛といつくしみ」が実現するのは、人がそれぞれ人間の尊厳を認め合うときです。それは上から目線で、受ける側を小さく見て人間の尊厳を傷つけることではありません。
今日の福音では、弟子達が復活したイエス様に出会った体験を述べています。「神のいつくしみ」を深く体験した出来事でした。復活されたイエス様は同じ場所に戻り、前と同じように弟子達の「真ん中に」立ち、「あなたがたに平和があるように」と同じ挨拶を繰り返しました。もう一度最初からやり直されたのです。
疑い深い弟子のトマスは、蘇られたイエス様の話を信じることは出来ませんでしたが、イエス様に実際に会って脇腹の傷に触れて、復活の事実を受け入れました。イエス様はトマスに「あなたは私を見たから信じたのですか?見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。
今日に生きる私達はイエス・キリストを信じています。イエス様を見ずして信じています。御復活されたイエス様の証人である使徒達が記した聖書を信じて、イエス様の御言葉全てを信じて毎日生きています。
私達が経験する様々な試練の中で、疑い深いトマスのように、恐れや疑念を持ち、自分をもろく感じる時があります。「目に見える」ものだけを信じ、自分の理想や価値、美意識が全てであるように錯覚し、願望に執着してしまう部分です。そして、それがうまくいかなくなると、自暴自棄になったりします。そういう時は自分の信じた信仰に立ち返ること、そして神様の助けを乞い願うことが必要です。
私達はどんなに年を重(かさ)ねても、歩き始めたばかりの子供のように、手探りで人生を生きています。歩いては転び、また転びます。その都度、神様は、私達を助け起こしてくださいます。私達を再び立ち上がらせるその手こそが、慈しみなのだと思います。
「見ずして信じる信仰」―これこそ主が求めておられる信仰であり、その信仰に生きるように私たちも招かれているのではないでしょうか。私達も、使徒トマスのように、世の救いである、神の慈しみを素直に受け入れましょう。
御復活されたイエス様は「あなたがたに平和があるように」と仰いました。この御言葉は今もずっと続いています。どうぞ皆さんも「神の慈しみ」を感じながら、祈りを通して世界平和を願っていただきたいと思います。
アンディ神父