「弁護者」
今日の福音の中でイエス様は愛する弟子達と別れるときが近づいていることを知り、弟子達のことを心配して、福音宣教について、全ての行いを思い起こし、その教えと共に生きるように呼び掛けられました。そしてイエス様は、聖霊によっていつも愛する弟子達と共に生きることを約束して下さいました。実際、私達の人生は出会いと別れの繰り返しです。別れる時には悲しみがあり、再び会う時には喜びがあります。私達が生きている限り、悲しみの涙、喜びの涙と共に生きていかなくてはなりません。
26節の「弁護者」と記されるこの言葉は、「助け主」、「後見人」とも訳され、ヨハネ福音書では聖霊の存在をはっきりと示しています。地上に残された弟子たちが置き去りにされたのではなく、イエス様が昇天されたあとも、助け主、つまり聖霊と共にいるという事を約束してくださいました。これはイエス様を失い、不安の中で生きていかなければいけないまだ弟子たちを導くためでした。そして、弟子たちが聖霊に満たされて、キリスト者として立派に自立して欲しいというイエス様の願いであったのだと思います。
イエス様が約束してくださった聖霊とは私たちが神様と共に生きることが出来るように導いてくれる神様のプレゼントです。この聖霊の導きによって私たちはイエス様の教えや神様のことが理解できるようになり、その存在を感じることが出来るようになるのです。つまり、聖霊によってイエス様、神様が私たちと共に生きておられると感じ、私達も神様の内にとどまることが出来るのです。聖霊の働きによって私達は、どんな絶望的なことがあってもそこから希望を見い出すことが出来ます。聖霊の力によって弟子たちは何があっても希望を見出して生きることが出来ました。この弟子たちのように、私達も聖霊の導きによって、人生の喜び悲しみを冷静に受け止め、神様の内に完全に留まって、自立していくように努力していただきたいと思います。
私が今日皆様と共に考えたいのは27節のイエス様の言葉です。「わたしは、平安をあなたがたに残し、わたしの平安を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
これは神様を信じイエス様を信じなさいということです。父なる神様を信頼し、主イエスを信頼するなら、必ず私共に平和が与えられるのです。これは主イエスの約束です。しかし、この平和は、戦争のない平和とは少し違うかもしれません。イエス様が私たちに残されたのは、主の平和です。これは、主イエスの御支配を信じることによって与えられる平和なのです。例えば、私共は年をとったり、病気になったりします。これらの問題は誰も避けることは出来ません。私たちは、不安になり、戸惑いながら生きなくてはなりません。ですが、主の平和とは、そのような現実の中にあって、私共を包み込む安らぎと希望を与えてくれる平和なのだと私は思います。
コロナ感染症が始まってから、私たちの生活は変わりました。人と人との間に距離を持つこと、マスクをして話すこと。私達にとってそれは試練だったかもしれませんが、私達はこの経験を通して、人と人とのコミュニケーションの大切さを学びました。そしてロシアのウクライナ侵攻では、長年信じてきた隣人に裏切られ、そして殺されるという、人間としてあってはならない罪深い行為を目にしています。どうぞ皆さん、今日の福音を通して、どのような困難な時であっても、神様、イエス様、そして聖霊に見守られて私達は今ここにいることを、感じていただきたいと思います。この2年間に失ってしまった心の寛容さ、疑うのでは無く、信じる心を取り戻していただきたいと思います。私達は心を合わせて、聖霊が私達のすべての人生において常に私達と共におられるように祈りましょう。そして、一日一日が皆さんの愛の実践の積み重ねによって、世界平和に少しでも貢献できるように、祈りましょう。