2022年6月19日 荻窪教会 キリストの聖体
ルカ9・11b-17
今日はキリストの聖体の祭日であります。普段、ミサの中で、何気なく拝領を行っているこの「聖体」というものが、どのようなもので、どれほど大切にされるべきかを再確認する上で、この祭日は、大きな意味を持っていると思います。
今日の第二朗読では、聖体の制定に関するパウロの手紙が読まれました。この手紙は、福音書よりも古い時代に書かれたものとされていますので、聖書の中でも最も古い聖体の制定記事であると言えます。この箇所を見たら分かる通り、これは、いわゆる「最後の晩餐」の一場面であります。最後の晩餐は、イエスが弟子たちと一緒に「過越しの祭り」を祝った食事です。過越しについては出エジプト記12章に詳しくその物語が書かれていますが、イエスも弟子たちも、ユダヤの伝統通りに古くから続く神との契約を思い起こして、この過越しの食事をしていたわけです。しかし、最後の晩餐の場面で、イエスはこの古くから続く契約を新しいものにすることを宣言しました。それまで過越しの祭りでは、パンの他に、小羊を屠って、その肉と血を供えることで、神との契約を確認していました。そんな時代に、イエスは自分の体と血を、小羊に代わる新しい供え物としてささげることで、新しい過越し、新しい神との契約を立てたわけです。最後の晩餐の後に、イエスは十字架の上で血を流して、亡くなります。まさに、その十字架での死をもって、新しい契約のためのいけにえとして自分を神にささげたのであります。それ故に、イエスは「新しい小羊、神の小羊」と言われるわけですね。この新しい小羊としてささげたイエスの体と血を、イエスが言われた通りにパンとぶどう酒の形で記念するのが、ミサの最も重要な場面であるわけです。ですので、現代においても、このミサは、イエスの新しい契約を、毎回毎回、その場に私たちが居合わせたかのように記念して思い起こすことであることを忘れてはならないのであります。
そんなミサでありますが、先ほど言ったように「イエスの言われた通り」に記念を行います。その意味で、ミサの奉献文においては、イエスが最後の晩餐で制定した4つの動作をそのまま再現しています。今日の福音箇所においても同じ動作が書かれていますが、それは「取る」「感謝をささげる」「割る」「与える」という4つの動作です。この4動作はミサの中で「取る」というのが奉納、「感謝をささげる」のが奉献文、「割る」のが交わりの儀、そして「与える」のが拝領、という風に対応しています。2000年前から現代まで、イエスの残した記念を私たちは、その言葉の通りに祝い続けているわけです。
この記念する、想起することが最も重要でありますけれども、その後、私たちが記念したパンとぶどう酒を拝領すること、これもミサの大きな意味の一つであります。聖体拝領をラテン語では「コムニオ」と言いますが、これは交わる、一つになる、という意味があります。私たちは、聖体をキリストのからだ、として頂きますが、パンがキリストのからだである、という段階から、それを拝領することで、私たち自身がキリストのからだになる、キリストと交わって、一つになるのだ、ということが、聖体拝領の意味するところであるわけです。ですので、このキリストの聖体の祭日において、私たちは、ミサというものが、イエスの制定した新しい契約を記念して想起すること、思い起こすことであり、またそれを拝領することで、私たち自身がキリストに結ばれるのである、というこの2つの大きなポイントを今一度確認し、そうした意味を理解しながら、毎日のミサに与かっていくその姿勢を大事にしていくことを心掛ける必要があるのではないかと思います。
この2つのポイントを意識しながら、まずは、このミサの中で、しっかりとイエスの残した記念を祝い、拝領する心を準備しながら、望んでいくことにしたいと思います。