年間第15主日
第一朗読 申命記30:10-14
第二朗読 コロサイ1:15-20
福音朗読 ルカ 10:25-37
今日は年間第15主日です。先日、日本では痛ましい事件がありました。元総理安倍晋三さんが参議院選挙演説中奈良市において銃撃され死去されたことです。安全だと思っている日本でも、このような事件が度々おこり、やはり、社会では人のために、国のために全力を尽くしても、その人を評価するより、自分と合わない人を恨むことの傾向が増えているという例の一つではないでしょうか。ここでは故人政治家としての様々なことに触れたいわけではありませんが、この様な事件があるということは、人を受け入れたくない人が社会の中にいて、その社会の方向性を問うべきではないかと思います。総理として、一部の人々が気に入らなかったことも決断したことと思いますが、国のために全力を尽くしたことには間違いないと思います。今日は元総理安倍晋三さんの安息を祈り、黙祷しましょう。
さて、これに真逆のことを今日の福音の中でイエス様がおっしゃいます。隣人愛の事です。隣人とはどういう意味でしょうか。辞書では「となりに住む人。となり近所の人。また、自分のまわりにいる人。」と書いてあります。となりに住む人、自分のまわりにいる人だからこそ、自分を知っていて、何かあったら助けてくれる人と考えてもいいです。もちろんそうしている方々が多いでしょうと思いますが、現代社会において、となりにいる人は時にはケンカの相手になったり、苦情を言われる人になったり、または、まったく無関係の人のように過ごしたりすることが少なくはありません。
イエス様が2000年前にも隣人の意味は、辞書の意味と違うことを教えてくださいました。イエス様にとって隣人とは、「となりに住む人、自分のまわりにいる人」ではなく、困っている人を助ける、その人のために命をかけてまで、一生懸命につとめる人です。今日の福音の中では、イエス様は、追いはぎに襲われ、半殺しにされたユダヤ人の面倒を最後まで見て、助けたユダヤ人に嫌われていたこのサマリア人こそが隣人であるとおっしゃいます。そうです、遠くにいる人でも、嫌われた人でも隣人になれるということをイエス様がいうのです。どんなに考え方が違っても、人を人として受け入れ、必要な時に、その違いに関係なく相手のために一生懸命に時間、才能、支援をする時に私たちはよい隣人になるのです。誰かのために祈ることもその一つでしょう。イエス様がおっしゃいましたこの隣人愛を日々の人々との出会いの中で実現することができるよう常にこころを開いて生きたいです。
この度、直接関わったことがないかもしれませんが、私たちの国を導いてくださり、銃撃事件に巻き込まれお亡くなりになりました元総理安倍晋三さんのために哀悼の意を表し祈りを捧げましょう。そして私たち一人ひとりが誰に対してもイエス様が言うような、人を思い、人を愛し、人を助ける、人のために祈る隣人でありますように心がけましょう。
Biju Kizhakkel (荻窪教会管理者)