2022 August 14th. Sunday.年間第20主日(Twentieth Sunday of the Year.)
ルカによる福音:12・49-50
その時、イエスは言われた。「私が来たのは、地上(ちじょう)に火を投(とう)ずるためである。その火がすでに燃(も)えていたらと、どんなに願(ねが)っていることか。しかし、私には受けねばならない洗礼(せんれい)がある。それが終(お)わるまで、私はどんなに苦(くる)しむことだろう。」
分かち合い:イエス様が語(かた)られる洗礼(せんれい)は、人の救いのために、喜んで、耐(た)える、苦(くる)しみです。(The Baptism which Jesus speaks about is the Sufferings, which he gladly, endured for the salvation of man.)
皆さん、今日、私たちは典礼年(てんれいねん)の第二十(20)日曜日を祝います。今日の福音書の朗読において、イエス様はすべての信者に必要な、悔い改めの恵みについて、非常に象徴的に語っています。 この朗読を振り返って、私は皆様と、二つの考えを、共有(きょうゆう)したいと思います。
第一に、イエス様は、神様の恩寵(おんちょう-grace)は, 私たちから罪(つみ)の 影響(えいきょう)を燃(も)やすことができる火(ひ)であると、説明(せつめい)されています。これについては、福音書の朗読で、私たちは次のように聞くことができます。
その時、イエスは言われた。「私が来たのは、地上(ちじょう)に火を投(とう)ずるためである。その火がすでに燃(も)えていたらと、どんなに願(ねが)っていることか。」
第二に、イエス様は、ご自分がお受けにならねばならない、洗礼(せんれい)、つまり、人類のあがない、あるいは、救(すく)いのための、十字架上(じゅうじかじょう)の苦(くる)しみと、死(し)について、語(かた)られます。これについては、福音書の朗読で、私たちは次のように聞くことができます。
「しかし、私には受けねばならない洗礼(せんれい)がある。それが終(お)わるまで、私はどんなに苦(くる)しむことだろう。」
ですから、悔い改めに関(かん)するこの教えから学びながら,自分の罪をあわれみ, 互いに、愛し合い,仕え合うために、あらゆる努力(どりょく)をしましょう。この尊い教えから学びながら、私たちの毎日の生活について、次のように、考えてみましょう。
毎日の生活の中で、私達も、イエス様の言葉を避(さ)け、あるいは、イエス様の、ことばから、離(はな)れてしまい、お互いに、愛(あい)と、奉仕(ほうし)をおこなわないで、あるいは、自分の罪について、回心しないで、生活したときが、あるかもしれません。このことについて、回心(かいしん)しながら、お互いに、愛(あい)と、奉仕(ほうし)しながら、生活するように、しましょう。こういうような、恵(めぐ)み、神様から、頂(いただ)けるように、このごミサの中で、ともに、祈りましょう。
また、今も、全世界(ぜんせかい)で、たくさんの人達が、新型(しんがた)コロナウイルスの、影響(えいきょう)に、大変(たいへん)苦しんでいます。難しいことですが、この苦しみの中にあって、神様の愛する子供(こども)である、全(すべ)ての人々が、救(すく)われるには、どうすれば、よいでしょうか。このことについて考えながら、病人(びょうにん)の、回復(かいふく)のために、共(とも)に、祈(いの)りましょう。