死者の復活について(ルカ20.27-38)
皆さん、今日の福音書は死者の復活、そして復活を信じた人間の生き方についてです。イエス様の時代、人が亡くなった後、復活するかどうか、意見が分かれていました。例えば、サドカイ派の人々は復活を否定していましたが、人は死んで復活するのではないか、と考えている人もかなりいたようです。
当時、サドカイ派は経済的にも社会的にも満ち足りていた人々の集まりでした。彼らにとって神様との関係は、神殿の祭儀の中で正しいいけにえを捧げているだけで十分で、死を越えて神様に期待するものなど何もなかったのかもしれません。ですから、今日の福音書の中でサドカイ派は「復活」という考えの矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのだと思います。
それに対してイエス様は、終末に人々がどうなるか、復活した神の子達は新しい存在であり、この世のあり方とは全く違うのだと仰いました。さらに、イエス様は、私達の神様は死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様なのだ、ということを教えられました。生きている者の神様とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神様だとも言えるでしょう。私達全ての人は、神様と共に生きています。
今日の福音書を読みながら、私は五年前のことを思い出しました。ちょうど司祭になった時、地元の教会で一人の立派な先生の葬儀をすることになりました。その時、どうやって遺族の悲しみを慰め、希望を持ってもらうか、大変悩みました。親しい人の一生がこの世だけで終わるということは、なかなか受け入れることはできないものです。
この難問について、イエス様は問いかけています。「この世において、今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられる時、それでもなお神様を信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか」そして、次のようにお答えになりました。「復活の命とはこの世の命の延長線上にあるものではなく、全く違うレベルの命なのだ。」復活とは100パーセント、「神様によって生きる」ことなのです。
残念ながらこの世では、全くもって不条理なことがたくさんあります。幼くして死んでいく命や、事件や事故、戦争や権力者の犠牲になる弱い立場の人々がいます。例えば数日前、韓国のソウルで、ハロウィーンを楽しもうとしていた154人が亡くなりました。誰一人として、その時に死ぬと思った人はいなかったでしょう。本当にこの悲しい出来事に言葉が見つかりません。
皆さん、今私達がここに集まってミサを捧げているのも、生きているからこそできることです。この神様から与えていただいた今日という時間を、そして命が特別なものであるということを感じていただきたいと思います。
私達は、愛する人々を「失った」ことを悲しむ時、その人々は失われたのではないと、信じなければなりません。その人々との繋がりは続きます。あなたから去ったあなたの愛する人と共に、心を通わせる時を過ごしましょう。
今日のイエス様の御言葉を味わいながら、私達は心を合わせて亡くなられた方の為に祈りましょう。主イエスが彼らを約束された喜びの国に迎えてくださいますように。アーメン
主の平和