2022年12月18日 荻窪教会
マタイ1・18-24
待降節も第4主日を迎え、クリスマスが間近に迫ってきました。この待降節という期間は、とても早く過ぎ去ってしまうような感覚があります。勿論4週間という、限られた短い時間であることもそうですが、一般的には年末ということで、普段の生活そのものが慌ただしくなっていることが、そう感じさせるのかと思います。そんな中で、降誕の大きな祝いを迎えようとする私たちは、一層、主日のミサにあずかり、福音を聞くことで、しっかりとした心の準備をする必要があるのではないかと感じます。
そんな準備の中、今日は待降節中の最後の主日であります。その福音箇所は、降誕直前ということで、ヨセフの見た夢の話が読まれました。イエスの誕生に関する記述は、マタイとルカの二つの福音書に書かれていますが、今日読んだマタイでは、ヨセフに、ルカ福音書では、マリアに天使が現れます。このどちらの話でも、最も強調されるべきことは「聖霊によってイエスが宿った」点であります。普通の人間として考えれば、男の人を知らないマリアが身ごもるということはあり得ない話ですが、そんな「人間では不可能なことも、神には可能である」ということ、人間の無力さと、神の完全さとが対比される形で、福音書に表現されることで、人間が自分達の力で救い主を迎えることが出来たのではなく、神が自ら望んで与えてくれたものなのだ、という証になっていると言えます。今日の第一朗読のイザヤ書にも、このマリアの受胎がそのまま預言されているわけですが、そこにもしっかり「主が御自らしるしを与える」と書かれています。ですので、私たちは、これらのことから、主の降誕の出来事が、神が自ら私たちに救い主を与えたという記念すべきことであり、そのことに感謝しながら降誕を迎える準備をするべきである、という理解を大切にしなければならないと思います。
もう一つ、ほとんどこの降誕の時期にしか聞かない名前を、私たちは聖書から受け取っています。それが「インマヌエル」という名であります。意味は今日読まれた箇所に書かれている通り、「神は我々と共におられる」というものです。「我らとともにいる」という意味のヘブライ語「イマヌー」と、神を意味するヘブライ語「エル」から来る言葉でありますが、これはイエスが実際にこう呼ばれたという名前ではなく、イエスそのものを言い表す名前であると考えるべきです。毎年私たちはこうして主の降誕を祝っているわけですが、それは単に2000年前に起こった一回の出来事を祝うのではありません。このインマヌエルという名前が表す通りに、イエスが、救い主が、今でも私たちと共にいること、この現代でも救い主が誕生した出来事が生きていることを祝っています。今日読んだマタイ福音書は全部で28章ありますが、その最後の言葉は何か、というとイエスの言った「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という一文です。要するに、インマヌエルという名は、福音書全体を通してイエスがどういう存在であるのかを示すと共に、現代の私たちに向けても、イエスが共にいることを教えている、そうした意味を持つものであるわけです。
クリスマスを間近に控え、私たちは今日読んだ箇所から「聖霊によるイエスの受胎は、神自ら与えてくれた出来事」であること、そしてそのイエスの誕生を祝うことは「今でも、私たちと共に救い主がいる」ということの実感であることを再確認しました。この待降節最後の主日にあって、これらの大切なメッセージをしっかりと黙想し、主の降誕に相応しい心の準備を整えることが出来るよう、このクリスマス前最後の主日ミサにおいて共に祈りましょう。