2023年1月15日 荒田神父様メッセージ

2023年1月15日 荻窪教会

 

ヨハネ1・29‐34

 

 ミサの冒頭でもお話しました通り、先週の主の公現、そして主の洗礼の日を終えて、教会の暦は、年間という期間に入っています。以前にもお話したことがあると思いますが、年間と聞くと、なんだか、何も特別なことがない期間のようなイメージを持ってしまいます。確かに、その他の季節、待降節であれば主の降誕に向けて、そして四旬節であれば、聖週間に向けて、具体的な目標、テーマを持って日々を過ごして行きます。では年間の期間は、何もテーマが無いのか、と言われたら、そうではありません。毎週日曜日、主日ごとに私たちが教会に集い、イエスの言葉を受けて、その教えを心に刻みながら日常へと派遣されていく、この主日本来の在り方をしっかりと実感するのが、年間という時期に大切なことであります。簡単に言えば、キリスト者として日曜日の大事さを味わう、そうした期間です。

 さて、そんな期間が始まって、今日の福音は洗礼者ヨハネが、イエスはどのような人物であるかを語る場面が読まれました。この中の二つのポイントを取り上げて見ていきます。

 最初に、ヨハネはイエスを見るといきなり「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い出します。聞いたことのある言葉ですね。私たちがミサの中でも唱えている言葉です。小羊というと、思い出すのは出エジプト記にある「過ぎ越しの出来事」ですね。小羊を屠って、その血を家の鴨居に塗れば、その家には神は災いを及ぼさずに過ぎ越す、そうしたお話がありました。この伝統からユダヤ人たちは、過ぎ越しの祭りをずっと祝うこともそうですが、毎年、自分の罪を赦してもらうために、神殿に行って小羊を「焼き尽くすささげもの」としてささげて、罪の赦しをもらう、そうした習慣がありました。小羊をささげて、罪を取り除いてもらう。まさにイエスの生き様も同じですね。自分自身をいけにえとしてささげて、十字架につけられて、死ぬ、その自分という犠牲をもって、全ての人の罪を赦してもらいました。ですから、イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」であるわけですね。この事を洗礼者ヨハネは言い表していたわけです。

 もう一つ大事なことは、後半にあります「聖霊」というものです。聖霊について、その存在であるとか、与えてくれる7つ賜物、そこから12の実を結ぶことなど、皆さんも洗礼や堅信の勉強でよく教えられたことだと思います。その中でも、特に大切なことは、聖霊によらなければ、私たちはイエスへの信仰も表すことができないし、神を父と呼ぶことも出来ない、ということです。このことは今日の朗読箇所にはありませんが、パウロの書簡、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙の中に書かれています。だからこそ、聖霊を受ける式である堅信式、信仰を堅くするための秘跡は、それを受けることで、真にイエスへの信仰を持つことが出来るし、神を「天におられる私たちの父」だと信じることが出来るようになるものなのです。聖霊について話せばものすごく長くなりますので、今日はそこまで話ませんが、私たちは聖霊を受けているからこそ、真の信仰を表明することが出来る、ということは忘れてはならないことであります。

 今日お話しした通り、私たちがカトリックの信者としてしっかりと理解すべきことを、年間の主日では、このように福音を通じて、教えを受けること、深めていくことを大切にしています。それはこれまで何度も聞いている話かも知れませんし、人によっては新たな発見でもあるかも知れません。日曜日、主日が、本当に私たちの信仰を固めていく、支えていく日であると理解し、この日を教会共同体で大切にすることが、年間という期間には肝要であります。この事をよく心に留め、私たちが日曜日、主日ごとに頂く言葉を受けて、日常を過ごしていくことが出来るように、共に今日の日を祝うことに致しましょう。