マタイ5・38‐48
ここ数週間、主日の福音は山上の説教の場面が続いて読まれています。今日の福音の中でも、先週に引き続いて「あなたがたは何々だと命じられている、しかし私は言っておく」という形での、律法を真に理解するための教えをイエスは語っています。
結論から言いますと、今日の福音において、イエスが一番強調したいのは44節「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という一言です。ですが、これほど人間にとって難しいことはありません。この一言をイエスに言われたとしても、普通は理解できません。だからこそイエスは「これくらいのことをやるつもりでいなさい」と、福音前半に述べられているいくつかの例を挙げながら、話を聞いている人々に教えているわけです。
福音の冒頭で語られているように、律法では『目には目を、歯には歯を』という規定があります。人に目を怪我させられたら、同じ分だけ、相手の目を怪我させてもよい、といった決まりです。すごい決まりだと思いますが、本来、この決まりは「同じだけさせてもよい」という意味ではなく、「同じだけやり返すに留めておきなさい」という注意なのですね。人間は自分が何かされたら、きっちり同じだけやり返すというよりも、怒りや復讐心に任せて更に相手を傷つけてやろう、攻撃してやろう、と考えるものです。半沢直樹だって「倍返し」だと言いますね。ですから、元々この律法は、そうなってしまわないように、やり返すのは同じ分だけに留めなさい、という意味で決められていたわけです。しかし、イエスはそれすらも行うべきではない、と教えます。自分が何かされても、復讐することなく、逆らうことなく、倍返しではなく、むしろ、2倍されるがままにしろと言っているのです。それは何故でしょうか、最後の48節「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい」と教えているからです。天の父、つまり神はどんな人間であっても、同じだけの恵みを与えられる存在です。そんな存在になるように目指さなければいけませんよ、とイエスは語ったわけです。なるほど、言いたいことはわかります。しかし、私たち普通の人間が、イエスの教える通り、人から何かをされても2倍されるがままにしろ、というのはまず不可能です。私自身も執念深い人間ですから、何かされたら倍返しでも足りないと思うくらいです。ですが、イエスもちゃんとそこは理解しています。
先週の福音を思い出してみてください。「殺すな」「姦淫するな」という律法の大きな教えをイエスは、その言葉通りに受け取るだけでなく、その大きな教えに繋がってしまう小さいことから気をつけろと教えていました。殺すな、と言われて、じゃあ殺しません、で終わるのではなく、「殺す」というものに繋がってしまう恐れのある、他人への悪口だとか、いじわるな言動であるとか、まずそうした小さなことを積み重ねていかないように、気を付けるべきだ、と教えていました。今日の福音も同じです。言われていること、復讐するな、抵抗するな、敵を愛せと言われても、私たちがその言葉通りに忠実に行動できるか、それは無理です。イエスもそこは理解しています。ですから、小さいことから気を付けていかなければなりません。今日の福音の47節に「自分の兄弟にだけ挨拶をしたところで、どんな優れたことをしたことになろうか」とあります。いきなり敵を愛せ、抵抗するな、という大きな目標を考えるのが大切なのではありません。自分の兄弟、つまりは自分の好きな人、知り合い、そうした人とだけ関わるのではなく、自分が苦手な人、嫌いな人、関わりたくないなと思う人とも挨拶をしなさい、関わっていきなさい、話していきなさい、ということです。「敵を愛せ」という言葉を、敵ありきで考え始めてはいけません。もちろん、そういう場合もありますが、他人を明確な敵と自分が認定してしまうよりも、まずは、そうなってしまいそうな人と関わっていく、話をしていく、このことから私たちは気を付けなければならないと、この福音のイエスの教えを理解すべきであります。そうした小さいこと、私たちがすぐにでも心掛けることの出来ることをまず始めていくことで、敵を愛する、そして神のように完全なものになっていく、そうした大きな目標に近づいていけるわけです。
今週の水曜日から、私たちは四旬節に入ります。イエスの受難を思いながら、自分自身の行いを反省する期間であります。今の自分はどう行動しているだろうか、本当にイエスのこうした教えを理解し、やれることをやろうとしているだろうか、今日の福音を改めて心に刻みながら、四旬節を迎えたいものであります。