マタイ17・1‐9
今日の福音は皆さんも何度も聞いたことがあると思いますが、いわゆるイエスの変容の場面が読まれています。先週から私たちは四旬節に入っていますが、毎年、四旬節の第2主日にはこの変容の箇所が読まれることになっています。私たちはこの季節にこの箇所が何故福音朗読として選ばれているのか、ということを理解しなくてはならないと思います。
この変容、という出来事ですが、突然イエスが光に包まれて、旧約聖書に登場する偉大な人物と並んでいる、とそんな光景が弟子たちの前で繰り広げられるわけです。しかも、雲の中、高い天から声も聞こえてくる、普通では考えられないようなことが起こっています。これまで弟子たちは、イエスをもちろんすごい先生、一人の人間としてすごい人物だとは理解していたでしょうが、このような恐ろしく感じる程のことが起こる人物なのだと、ここで初めて理解したかも知れません。
ではこの変容の出来事によって、イエスは弟子たちに何を教えたかったのか、これは今日のミサの中で司祭が読む「叙唱」に簡潔に説明されています。「主キリストは、ご自分の死を弟子たちにお告げになったのち、聖なる山で光り輝く姿を現し、モーセと預言者たちの言葉の通り、苦しみを経て、復活の栄光に入ることをお教えになりました」とあります。つまり変容とは、イエスがこれから受難、大きな苦しみがあって、そこから復活という大きな喜びにまで至りますよ、ということを教えている出来事であります。イエスは、今日の福音の直前の箇所でも同じようなことを言っていますが、ここでもまた「人の子が、死者の中から復活する」という言葉をはっきり口にしています。これから、自分は苦しいことがある、死を迎えるけれども、その後には復活する、喜びに変わるから安心しなさい、といわば励ましの言葉を、この変容の出来事を見せると共に弟子たちに与えているわけです。しかしその意味を、弟子たちは理解出来ませんでした。目の前で起こっている出来事も何が何だかわからないし、イエスが死ぬとか、復活するとか言われても、いきなり信じられることではない、という気持ちになっていたのが正直なところではないかと思います。私たちは聖書を通じて、この後何が起こるのかを知っていますから、この変容の出来事の意味も理解しやすいですが、その時の弟子たちにとっては、ただ困惑するだけのことだったかも知れません。しかし、変容の意味を理解していても、していなくても、ここで重要なのは、5節、雲の中から聞こえる神の声です。「これに聞け」というものです。聞け、というのは、聞き従え、という意味です。一番大切なのはこの神の声であるのです。この時の弟子たちもそうですが、現代の私たちもこの声の大事さをしっかりと心に留めておかなければなりません。
弟子たちも、イエスと行動を共にし、様々な教えを聞き、わざを目にしてきました。それでも、イエスの受難の時には逃げてしまったり、イエスを知らないと言ってしまったり、「これに聞け」という声とは真逆のことをしてしまいました。私たちもイエスの言葉や行いを直接目にしてはいませんが、その分、何度も福音から、沢山のイエスの言葉、イエスの行動、教えを受けています。それでも、時に疑いを持ったり、今の常識を中心として考えてしまったり、あるいは、こうした四旬節という自分自身をよく省みる季節にあっても、先のことの準備ばかりに目が行ってしまって「これに聞け」という声を大切にできていないこともあります。だからこそ、私たちはこの季節に、改めてイエスに聞き従うこと、教えを聞いて行動することの重要さを、今日の福音を通して教えられているのではないかと思います。もちろん、変容の出来事の意味である、受難という苦しみから復活への喜びというものを理解することも大切です。それと同時に、その出来事の中で弟子たちに、そして私たちに語り掛けている神の声にも、しっかりと耳を傾けることが大切である、ということです。
この四旬節、まだ半分以上ありますけれども、今一度、私たちがこの季節に、真に反省するべきこと、改めて行かなければならないことを、よく見つめなおしてみたいと思います。そしてその反省が、四旬節だけに終わるものでなく、これからの毎日の信仰生活の中で生かしていけるように、その助けを神に願いたいと思います。私たちそれぞれの反省を胸にしつつ、イエスの言葉と行いに、聞き従っていくことが出来るよう、このミサの中で共に祈りましょう。