「年間第16主日」 (荻窪教会)
(刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい)
毒麦のたとえ話で、イエスは刈り入れの時の決定的な選別を語っています。毒麦は焼かれるために束ねられ、良い麦は倉に納められるとイエスは言われます。しかし、それがイエスの語られる天の国の実現の時なのではありません。天の国は終末の時における、神の決定的な介入によって、神の審判の実現によって、初めて実現するというのではないのです。天の国の、将来における到来をイエスは語っているのではないのです。むしろ、終末の決定的な神の介入を前に、麦の中に毒麦も交じっている、今のこの世界の中に、イエスは天の国を見ているのです。天の国は、神がその力を余す所なく現わしておられる世界です。麦の中に毒麦も交じっている、それをそのままにしておく、麦は麦、毒麦は毒麦と誰の目にもその見分けが付く、その時までそのままにしておかれる、そのような神のなさり方こそ、天の国のありようであるとイエスは言われるのです。そして私たちは、今すでに、天の国、神の国の中に生かされているとイエスは言われるのです。そこで私たちに求められていることは、神がいつの日か成し遂げて下さるであろう、決定的な選別に信頼し、毒麦の伸びさかる中で、与えられた麦としての命を、懸命に生き続けるということです。それが今この時の天の国を生きる、神の国を生きる私たちのありようであるとイエスは言っているのです。
「天の国はからし種に似ている、パン種に似ている」「神の国は『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」 からし種も、パン種もすでに今、私たちの中にあるのです。この世界の中で、神が蒔いてくださった種は、私たちの中に芽生えつつあるのです。
辻 茂