年間第17主日 (荻窪教会)
(宝を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う)
天の国は、人に喜びを与え、持ち物を全て売り払ってでも獲得したいと思わせるほどに貴重なものです。 天の国は、畑の中に隠された宝に似ています。この宝を見つけた人は、喜びのあまり去って、持ち物を全て売りに出してその畑を買います。畑を買うということから、それまでこの人は自分の畑を持たない労働者だったのかも知れません。貧しい労働者が、偶然宝を見つけ、持ち物を売り払って、宝の隠された畑を買います。 天の国は、良い真珠を求めている商人に似ています。求めているとありますから、この商人は豊かで、諸国を巡り歩いているのかもしれません。彼は貴重な真珠を見つけると、出かけて持ち物を全て売り、真珠を買いました。畑を買う人も、真珠を買った商人もともに、持ち物を売るという同じ行動を取ります。直訳では、畑を買う人の行動は現在形で、真珠を買う商人の行動は過去形で書かれています。その人が貧しい人であれ、豊かな人であれ、それが偶然であれ、求めるという努力をした結果であれ、過去であれ現在であれ、天の国は持ち物全てを売ってでも手に入れたいと人が願うほどに貴重なものであり、ひとに喜びをもたらします。 天の国は、海に投げられ、あらゆる魚を寄せ集める網に似ています。しかし、その網は岸に引き上げられると、良いものは入れ物により分けられ、不適当なものは外へ投げ捨てられます。今、天の国はあらゆる魚を寄せ集める網のように、全ての人を包み込んでいます。しかし、その中には不適当なもの(悪いもの)がいます。畑に隠された宝と貴重な真珠のたとえとの関連で読むなら、ここでの悪とは、倫理的な悪ではなく、持ち物全てを売り払ってでも手に入れたいと人が願う天の国に気付かないことだと考えられます。そのような人は、世の終わりに泣くことになります。 これらのたとえを聞いているのはイエスの弟子たちです。ここには、先週の福音のように、弟子となることが期待されながら、たとえの意味を理解できない群衆となってしまう彼らは登場しません。イエスの弟子は、イエスの言葉を全て理解します。弟子にとってイエスの言葉は、もはやたとえではありません。ですから、今週の福音では原文で、天の国は似ていると語っているのです。
天の国の弟子となった学者は、天の国という宝から全てを取り出す一家の主人に似ています。イエスは、古い伝承を天の国に照らして、その新しい意味を引き出しました。全ての人を包み込む天の国に目を向け、イエスの言葉に導かれるなら、私たちも一家の主人のように、全てを取り出すことができます。
辻 茂