年間第27主日 (荻窪教会)
(主人は、ほかの農夫たちにぶどう園を貸すにちがいない)
ガリラヤ地方は、長いこと外国の支配下に置かれていました。農民たちは外国人の地主のもとで、低賃金に甘んじて、貧しい生活に耐えています。ですからその心には、地主に対する根強い反発があります。屈辱に満ちた生活に耐えかねて、先祖伝来の自分たちの土地を取り戻そうと、武器を持って立ち上がることもあったでしょう。今日のたとえには、こうした背景がありました。イエスが搾取されている農民の悲しさよりも、その敵意と残酷さを強調している事に注目すべきです。それは、おそらくイエスが置かれていた状況か心境によるものだと思います。つまり、追い詰められると、全てをかなぐり捨てて邪魔者を排除する残忍な心と同じものを、律法学士、長老、祭司長の中に見ていたのでしょう。イエスは幾度となく、イスラエルの人々に、愛とあわれみと赦しを説きました。生活に疲れた人々や重荷に苦しむ人々、罪人や社会から排斥されている人々を受け止めてきました。そうすることが神の心であることを、身をもって示されたのです。しかし、そのことを律法学士、長老、祭司長には理解できませんでした。彼らは自分たちの指導に誇りを持ち、自信を持っています。イエスの教えは、彼らにとって自分たちの秩序を乱し、混乱させる邪魔な存在として捉えます。普段は表面を装い、きれいに装っていても、一皮むけば、その心には、おごり高ぶった心が生きているのです。私たちも、しっかりと心の奥を見つめていなければなりません。
辻 茂